(歴史家という)兵どもが夢のあと

新・ローマ帝国衰亡史 (岩波新書)

新・ローマ帝国衰亡史 (岩波新書)

ローマ帝国の境界というのは現在の我々が考えるような截然としたものではなく、少なくとも軍隊駐屯線の内外の両側外側数百キロにひろがる「ゾーン」としてとらえたほうが適切なのではないか、という説が紹介されている(英歴史研究者ホイタッカーによる)。ホイタッカーによると、国境ーフロンティアを線であり文明と野蛮を分かつ境界線であるとする考え方自体、近代のヨーロッパによる植民地戦争の経験、またアメリカ合衆国の西部開拓の経験などからきたものなのではないかと指摘しているという。

 

また、ローマ帝国は異民族に対して寛容だった、というのも我々が漠然と抱くイメージとは異なるものであろう。軍の司令官や時には皇帝までがいわゆる「異民族」から選出されることがあった。48年銅板に刻まれたクラウディウス帝の言葉「属州の人であっても、もし元老院を飾ることさえできるのなら。私は彼らを決して拒否することはないと考えている」(リヨン、ガロ⁼ロマン博物館蔵)。

「ローマ人である」とは何よりもローマ人であるとの自己認識を持つこと、それは辺境を守る兵士や属州の地方有力者たちに共有されていた意識であり、それこそが領域も担い手も曖昧であった帝国を支える要件でありその実体であった。過去に外部から人材を得て発展し歴史を記憶にとどめることで偏狭な排外主義に落ち込むことなく、最盛期を迎えることができたのだった。まさに「限りない帝国(インペリウム・シネ・フィネ)」とは「国境線なき帝国」であった。

(依って立つべきその過去に思いを致すことなく排他的ローマ主義に落ち込み、「排除」や「差別」が支配層のイデオロギーとなった時に帝国の衰亡への道がはじまったのだ。)

 

5世紀初のいわゆる「蛮族の大侵入」にたいする位置づけについても、後世それを語る歴史家の生きた時代のものの見方を反映し様々な解釈がなされてきた。ナチスドイツの記憶がまだ新しかった時代にはその破壊や暴力の側面が大きく見積もられ、人数も多く考えられていた。ところが20世紀後半多文化主義の時代には諸部族による破壊ではなくローマ世界への順応の側面が語られることとなった。さらには新世紀に相次ぐ紛争により生み出され続ける難民や廃墟のイメージが再び歴史認識に影響を与えているという。

 

漠然と抱いていたローマ世界にたいする常識が覆されていくという読書の快楽は存分に味わうことができたのだが、読後心に懸るのはあらためて、「歴史」とは何なのか?という問いである。歴史とはあくまで「歴史叙述」であり事実そのままではない、ということは十分に理解した上でなおそう問わずにはいられない。

(ここで「事実」とは何かというまた別種の問題を問うこともできるが今は深入りしないでおこう)