瓢箪から駒

きょう図書館で流し読みしたなかに、セレンディピティを「瓢箪から駒」と訳している人があり、このどうにもこなれないカタカナについて、ふっと(ある部分のみ)腑に落ちた気がしたものだ。

「意味のある偶然の一致」という説明で理解しようとしていたが、いかんせん長ったらしくてピンとこない。アイデンティティーを日本語でいえないようなもんだ。

何を言いたいかって、要は、図書館でその日借りてきた複数の本に、あるつながりがあったりするんではないかと、記録しておいたらそれはそれでいま・ここの自分の関心のありようを示すのではないかとおもうわけなのだ。

今日金町の図書館で借りた本は以下の通り。

イエズス会宣教師が見た日本の神々」
ゲオルク・シュールハンマー著/安田一郎訳
「煉獄と地獄」松田隆美
「パパの電話を待ちながら」
ジャンニ・ロダーリ著/内田洋子訳
「快絶壮遊〔天狗倶楽部〕明治バンカラ交遊録」
横田順彌
「詩を書く」谷川俊太郎

三福再訪

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池袋三福で一杯。何年ぶりだろう。

引き戸を開けようとすると、店に戻るらしいお兄さんが「どうぞ」と先にいかしてくれる。友人だったかしら、と訝るくらい、よく知る顔なのだ。

おそらく10年はあいているのだが、かつて知る店内そのまんま。ん?フロアの女性がオール外国人なのは前からだったかな。

ビール大瓶はスーパードライ。ポテサラと串二本。
エッジのきいたレバ、タン。120円でこんなに大ぶりだったか。焼き物ばかり食っていたはずなのだが、あまり記憶になかった。うれしい再発見。

これも因果か、時はめぐりふたたび職場が池袋になった。

いいまちがい

朝、東武伊勢崎線。20代(?)の男女の会話。
女性のほうの、やけに断定的な物言いが耳障りできくともなくきいていた。
その、女性のことば。
「一語一句」

ああ、訂正したい。
近ごろやけに、文字、音声とわず、とにかく「ことば」が目に耳についてしかたがない。

夜、つれだって銭湯にきていた20代男性二人の会話。
「あいそうばし」

築地、月島、越中島…等々の地名がはさみこまれていたので間違いない。
相生橋でしょ、それを言うなら。
なかなか手がこんでいる。

なにより奇怪なのは、どちらのケースにおいても、きいている連れのほうが言い間違いにまったく気づいていないように見えることだ。

(歴史家という)兵どもが夢のあと

新・ローマ帝国衰亡史 (岩波新書)

新・ローマ帝国衰亡史 (岩波新書)

ローマ帝国の境界というのは現在の我々が考えるような截然としたものではなく、少なくとも軍隊駐屯線の内外の両側外側数百キロにひろがる「ゾーン」としてとらえたほうが適切なのではないか、という説が紹介されている(英歴史研究者ホイタッカーによる)。ホイタッカーによると、国境ーフロンティアを線であり文明と野蛮を分かつ境界線であるとする考え方自体、近代のヨーロッパによる植民地戦争の経験、またアメリカ合衆国の西部開拓の経験などからきたものなのではないかと指摘しているという。

 

また、ローマ帝国は異民族に対して寛容だった、というのも我々が漠然と抱くイメージとは異なるものであろう。軍の司令官や時には皇帝までがいわゆる「異民族」から選出されることがあった。48年銅板に刻まれたクラウディウス帝の言葉「属州の人であっても、もし元老院を飾ることさえできるのなら。私は彼らを決して拒否することはないと考えている」(リヨン、ガロ⁼ロマン博物館蔵)。

「ローマ人である」とは何よりもローマ人であるとの自己認識を持つこと、それは辺境を守る兵士や属州の地方有力者たちに共有されていた意識であり、それこそが領域も担い手も曖昧であった帝国を支える要件でありその実体であった。過去に外部から人材を得て発展し歴史を記憶にとどめることで偏狭な排外主義に落ち込むことなく、最盛期を迎えることができたのだった。まさに「限りない帝国(インペリウム・シネ・フィネ)」とは「国境線なき帝国」であった。

(依って立つべきその過去に思いを致すことなく排他的ローマ主義に落ち込み、「排除」や「差別」が支配層のイデオロギーとなった時に帝国の衰亡への道がはじまったのだ。)

 

5世紀初のいわゆる「蛮族の大侵入」にたいする位置づけについても、後世それを語る歴史家の生きた時代のものの見方を反映し様々な解釈がなされてきた。ナチスドイツの記憶がまだ新しかった時代にはその破壊や暴力の側面が大きく見積もられ、人数も多く考えられていた。ところが20世紀後半多文化主義の時代には諸部族による破壊ではなくローマ世界への順応の側面が語られることとなった。さらには新世紀に相次ぐ紛争により生み出され続ける難民や廃墟のイメージが再び歴史認識に影響を与えているという。

 

漠然と抱いていたローマ世界にたいする常識が覆されていくという読書の快楽は存分に味わうことができたのだが、読後心に懸るのはあらためて、「歴史」とは何なのか?という問いである。歴史とはあくまで「歴史叙述」であり事実そのままではない、ということは十分に理解した上でなおそう問わずにはいられない。

(ここで「事実」とは何かというまた別種の問題を問うこともできるが今は深入りしないでおこう)